私たち医療業界・民間療法団体は、自身の「正しさ」をアピールしてきました。
自身の治療方法、改善方法を誇り、自身の「正しさ」を競い合ってきました。
西洋医学は自身を誇るために民間療法団体を非難しました。
東洋医学や民間療法団体は自身の正しさを主張するために西洋医学を叩きました。
こういった「正しさ」の競い合いが、時には「では何が正しいのか?」とアトピー患者の混迷を深める結果をもたらした、といえるでしょう。
私はこのような医療業界・民間療法団体の至らない点を反省し、出来るところから頑張ろうと考えています。
西洋医学の皮膚科と民間療法団体はどちらが優れているか???
自分の存在を主張するには、自分だけを持ち出しても主張することはできず、自分とは違う存在を引き合いにださなければ自己の存在を主張することはできません。
ここにコップがあるとして、コップは自分を「私はコップです」といったところで自分はコップだと証明できません(コップはコップって名前がついているからコップなのではありませんよね)。
コップは自分がコップだと主張するには、テーブルとか花瓶とかボールペンと比較しなければいけません。
テーブル、花瓶、ボールペンとの違いを述べることで、やっとコップは自分の存在を相手に認めさせることができます。
このプロセスを見れば、コップは他の存在に依存しなければ、自己の存在をアピールできないことがわかります。
西洋医学は東洋医学を引き合いにださないと、その存在を証明できません。
アトピー患者に対して西洋医学の皮膚科では標準治療が行われます。
この標準治療ですが、「私こそが標準治療である」といいたいのであれば、基準からはずれた治療・療法を引き合いに出さないと自身の治療が標準であるとはいえません。
たとえ「基準外の治療法」を引き合いに出さなくとも、「私こそが標準治療である」といったとたん、基準外の存在があることを言外にほのめかしていることになります。
西洋医学の皮膚科が民間療法を批判することで、西洋医学は自己の優位性を訴えるのをみかけることがあります。
民間療法を引き合いにださないと皮膚科は自己の優位性をアピールすることはできません。
本来的に皮膚科が優れているならば、わざわざ民間療法を引き合いに出さなくてもよいはずです。
ですが他の治療法との差異を述べることなく西洋医学の皮膚科は自己を誇ることはできません。
しかしながら、皮膚科は民間療法と比較することで優位さをアピールできていることは、皮膚科は民間療法に依存している、のっかっている。
民間療法に依存しないと皮膚科は自分をアピールできないわけですから、民間療法の方が優れている、といえるのです。
民間療法は民間療法で、ステロイドを使用した薬物療法を批判します。
民間療法を実践する団体は皮膚科を批判することで自分の優れていることをアピールします。
ですが、皮膚科を持ち出さないと自己の優位性を誇ることができません。
民間療法が皮膚科に依存しつつ、おのれこそが優れていることをアピールするならば、皮膚科の方が民間団体より優れているといえます。
西洋医学と東洋医学はどうでしょうか。
そもそも西洋があるから東洋が決まります。西洋がなければ東洋も存在しません。
全世界のすべてが東洋ならば、西洋はおろか東洋すらもありません。
アヘン戦争を境にして長らく東洋は西洋に劣り、西洋の方が優れているとめされてきました。
しかし、西洋は東洋の存在に依拠しないと西洋の優位性を主張できません。
今までみてきたように、自己の優位さを誇るためには、他者との差異を述べなければなりません。
自分とは異質の「憎い」相手を批判して、おのれの優位性を主張してみても、その批判・主張は相手があってこそ成り立つのです。
さらにいえば、
西洋医学(皮膚科)と民間療法が互いに批判しあっても、しょせん同じ穴の狢(むじな)です。
なぜならば批判しあう「皮膚科―民間療法」は、互いに似てくるからです。
皮膚科は民間療法を批判すればするほど、皮膚科は民間療法に似てきます。
民間療法も皮膚科を批判するうちに、民間療法は皮膚科に似てしまう。
両者の対立を外部から見ると「なんだ、どちらも『自分こそが正しい』『私こそが治せるのだ』っていいたいだけじゃん。似たり寄ったりだね」といった具合に―。
結局は両陣営、同じ穴の狢なのです。
「私が正しい」―内なる恐れがそういわせる
「正常とはこのことだ」と主張したければ、何かを異常扱いしないといけません。
異常という存在がなければ正常について語れないからです。
なぜならば、異常には「これが異常だ」という基準がありますが、正常には「これが正常だ」といった明確な基準がないからです。
異常を規定し、異常をつくりだし、異常を持ち出さなければ「私は正常だ」といえないのです。
正常は異常をつくりだして彼我の差を比較することで「ようやく」正常だと主張できるのであって、正常は異端に依存し、頼り切っている存在に過ぎません。
本当に優れているならば何かを異常扱いにする必要はありません。
実のところ正常な血圧の数値の明確な基準はなくて、まず異常な数値がまず決められて、正常な数値が後になってから、おのずと決まるといった具合なのです。
正統と異端の二項対立も同様です。
異端をつくりだし「私こそが正統だ。私こそが正しいのだ」とアピールする人の心理的背景には異端を目の前にした時の恐怖と、それにともなう自己の存在不安があるのです。
内なる「恐怖」と「存在不安」を払拭したいがゆえに、異端者へ指を突き立て自身の正統性を叫ぶのです。
なので異端がいなくなって困るのは実のところ自身の正統性を主張したい人なのです。
異端者をつくりだし、それを声高に非難し自身の正しさを主張する側とは、異端者に依存することで、ようやく生存できている人間だといえるでしょう。
文責/NPO法人日本成人病予防協会会員渡辺勲
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