長すぎた喪失から回復までの20年間。
長すぎたアトピーの本質を知るまでの時間。
長すぎた病院と薬の依存から脱却できるまでの期間。
では赤裸々な闘病体験をお読みください。
食物アレルギーからアトピー性皮膚炎へ
幼い頃の皮膚のトラブルは食物アレルギーから始まる。
生卵が入っている親子丼ぶりを食べると顔や頭皮に蕁麻疹がでた。
生卵だけでなく鯖や小麦といった食物アレルギーを抱えていた。これがアトピー性皮膚炎へと重症化してしまうことになる。
アレルギー体質だったので小学生の頃の予防接種は医師から禁止されていたほどだった。
アトピーと初めて診断されたのは中学生になってからだった。
中学1年生の時にアトピーが発症
中学1年生の夏休みが終わった2学期に、みるみるうちに顔のおでこに炎症が起きて赤くなった。アトピーが発症したのだ。
おでこがガサガサに厚い皮がはった。目の周りが赤く、そして腫れてきた。眉毛が全部抜けた。
鏡を見ると自分の顔がまったく変貌したことがわかる。
もう鏡は見たくない。学校に行っても恥ずかしい。ずっと下を向いて歩いていた。
唇の周りが赤く腫れた。あごが痒くて痒くてたまらない。
頭皮がガサガサに乾燥して、とても痒い。掻くたびに白くて厚い皮のフケが毛髪にひっかかる。
クラスのみんなが自分のひどい顔を見ているような気がした。影で自分のことを気持ち悪くいっているようだ。
ついにクラスの女子たちが私の顔を見て「気持ち悪いから、あっちいって」「うつさなでね」というようになった。
これはいじめだったと思う。思春期だったから、とても耐えられない。学校に行くのが嫌になった。
冬になり乾燥が激しくなると顔にびっちり厚い皮がはって、この気持ち悪さがたまらない。
洗顔をすると乾燥が激しくなるので、ずっと顔を洗うことはしなかった。顔を洗う恐怖が大人になるまで続いた。
ステロイド治療を始める
中学1年生が終わった春休みに近所の皮膚科に母と行った。
ステロイドが処方されて塗ると、あっけなく皮膚の炎症が消えた。「なぜ今まで薬を塗らなかったのだろう」と思った。
しかし、だんだんと顔がぼんやりと赤くなり、身体の痒みが残った。ずっと右の手首を掻き破った傷が痛くてしみていた。
中学3年生になって修学旅行は熊本の阿蘇だった。慣れていないバス旅行だった。
体調をくずして修学旅行先でアトピーが悪化した。
顔が頭皮がめちゃめちゃ痒い。阿蘇の5月の日差しはきつい。顔がどんどん赤くなっていく。
苦しんでいる私を見つけたクラスの女子たちが「おまえ気持ち悪いんじゃ!」「なんでこんなヤツいてるんだろ」といってきた。男子生徒たちが様変わりした私を見て嗤った。
身も心も生きた心地がしなかったからだ。死にたかった。死んで今すぐ消えたかった。それ以来、旅行に行くことが恐怖になった。
そして、そのまま皮膚炎の私に戻ってしまった。
一段と辛くて長い本格的な闘病人生が始まるのだった。
激しくアトピーが悪化するもステロイドが効かない
18歳になった春に悪化した。人生で2回目の激しい重篤な状態になった。
顔だけでなく全身に皮膚炎が発症した。
私はある医科大学付属病院の皮膚科に行った。そうすると「ステロイドは怖いですよ! 目に入ったら白内障になりますよ! 塗ってはいけません」と若い医師がいってのけたのだ。
こんなに辛い思いをしているのに、ステロイドをくれないなんて。ひどい。
(それから20年くらいしてから、私は「アトピー白内障」という症状が実際にあることを知る。この当時はまだ知られてなかった)
仕方がないので、中学生の時に通院していた皮膚科でステロイドをもらって炎症した肌に塗った。しかし治らなかったのだ。
さらに強度の強いストロングタイプを使ったけど、ますますひどくなる。
よく、ステロイドをやめるから治らないのだ、ということをいう医師がいるが、私の場合、1年もステロイドを塗ったが治らなかった。
そして、体調がおかしくなり勉強どころではなくなった。だから大学受験を1年延長してしまった。
そこで、ふとある新聞記事で大学医学部付属病院のT医師のインタビューが掲載されていた。
私は大学付属病院に行った。そこで初めて私は漢方薬治療を受けるのだった。
漢方薬によるアトピー治療が始まった
パウダーの漢方薬を処方され毎食前に欠かさず飲んだ。
そして、非ステロイド系抗炎症剤と抗菌剤を混ぜて塗る治療が始まった。この苦しい闘病生活が10年以上も続いた。
漢方薬には好転反応である「めんげん」がある。私も掻き傷から一気に浸出液が噴き出てしまった。
一時、漢方を飲むのをやめるように医師から指示を受けることで浸出液が止まった。だが、治ったわけではなかった。
やっと大学に合格して入学できたと思うと、春の悪化で顔が痒くて、ずっとイライラしていた。目を掻くと腫れて、目が細くなって人相が変わってしまった。だから、まったく心は晴れなかった。
大学生になっても皮膚科への通院は続いた
春を過ぎて夏になれば汗をかいて、痒くなる。秋と冬になれば肌が乾燥して痒くてつらい。これを毎年くりかえした。
もちろん漢方薬を毎日飲んでいた。食事改善をしても良くなる兆しすらなかった。
シャツの襟はいつも薬がついてベタベタしていた。
いつも肌は色素沈着で赤黒くて、カサカサした顔と首だった。ほんと生きた心地がしなかった。夏、汗をかくとすぐに身体がほてって猛烈に痒くなった。
痒みだけではなくて、身体の調子が良くなかった。たとえば冬なのに身体がほてる。暑い。だけど汗がでない。身体の中で熱がこもっている感じで、重苦しかった。
頭皮の乾燥がつらくて、この苦しみは誰にも理解されないだろう。
腕が燃え盛る炭の棒のように、いつまでもジンジン痒い。掻いても掻いてもおさまらない。
夜も寝付けず、深夜の4時になってやっと眠れることはしょっちゅうあった。
そして、朝目覚めると、布団に皮が散らばっていて、かき集めると手の平いっぱいの量になる。
しかし、塗炭の苦しみはここで終わらなかったのだ。ふたたび症状が大爆発をするからだ。大人になっても治ることはなかったのだ。
食事改善をしても体の痒みがおさまらない
治療と並行して食事には気をつけた。なるべく家で和食を心がけた。
だけど、大学を卒業して社会人になっても改善しなかった。ずっと痒みを感じて熟睡できない状態だった。
秋と冬は特にしんどくて、皮膚を服のように、はぎとればどれだけ楽だろう。何度も思った。
頭皮の乾燥の苦しみも当時の私にとって耐えがたかった。
頭皮に接着剤を塗って乾かした感じといえばわかって頂けるだろうか。
もう、ずっと身体の皮膚に意識がはりついていて仕事への集中力が欠如していた。
何もしていないのに、迷惑もかけてないのに「ただ生き辛い」
ある日、大学の先輩の家に急遽、泊まることになってしまった。遅くに先輩の家に着いたこともあって、お風呂に入れなかった。これが私にとって恐怖の始まりだった。普通の人なら「なんのこと?」と思うに違いない。
この時は冬の季節だったので、入浴しないと肌が湿り気を含まず、朝起きると顔がカラカラに乾燥してしまう。
これが死ぬほど辛いのだ。一方で、お風呂に入っても、入浴後すぐに水分蒸発とともに肌から湿り気がなくなる。
案の定、朝になって先輩の家を出た時、顔が紙のようにパサパサに乾き切っていた。
皮膚が肌の中心に集まって……シワシワになっていくようで……この皮膚感覚を形容する言葉がないのが悔しい。
私は帰り道、こんな調子でこれからの長い人生を生きながらえられるのか? と暗澹たる思いになった。
何をしても楽しめない。普通の人みたいに一瞬でもいいから青春を楽しみたい。
私も普通の人みたいに、夢や目標を追いかける過程で生まれる苦悩を味わいたい、受けて立ちたいのだ。
だが、自分は何もせぬまま、肌に意識をはりつけられながら、生きていかなければいけないのか?
他人から「なにをほざいているのだ」「もっと世間では苦労している人がいるぞ」とそう思われるのが辛かった。
これは被害妄想ではなくて、実際にこんなことをいわれたことがある。
しょっちゅう手が体にいって掻いていた私に対して「おまえが今までの学生の中で一番、しんどいやつじゃ」と大学のゼミの教官は、ため息まじりでいうのだった。
ある会社の就職面接でも「酒でも飲んでるのか? 顔が赤いの」といわれたのだった。
しかし、私はずっと漢方薬治療を受けていたのだ。
塗り薬も塗っていた。非ステロイド系の抗炎症剤軟膏と抗菌剤、保湿剤、ワセリンも塗っていたのだ。
食事も和食を心掛け、外食はしていなかった。
私はタバコを吸わない。お酒も飲まない。
入浴の後、起床した時、こまめにスキンケアをしていた。
断食もしたし温泉にもいった。
しかし、肌は元通りに回復しなかった。私の人生は悪い方へ悪い方へ、じんわり沈んでいく感じだった。
この果てない苦しみを抱えて生きることを思うと、足元から闇が這い上がってくるようだった。
そして、3回目の大爆発を迎える。
この時、私は仕事を辞めて失業者になってしまうのだった。
3度目のアトピー激悪化で退職してそして失業者に転落
社会人になって5年目の春のこと3度目の激悪化に見舞われた。
当時、東洋医学の権威がいる漢方専門クリニックに通院していた。
漢方でも保険適用外の高価な煎じ薬を飲んでいた。
この先生は塗り薬否定派の方だったので、外用剤は使用せず漢方の煎じ薬を飲むことになった。
毎日毎日、漢方薬を土鍋で煎じて2回に分けて飲む。だけど、2年くらい通院して3回目の悪化に至ったのだ。
もう、何をしても良くならないことに私は希望を見失った。
すっかり眉毛も抜けてしまって、おでこもガサガサに厚い皮がはってしまった。
腕もすっかり赤くただれて、ものすごく痒かった。
首も深いシワができてしまった。傷に汗がしみて痛くて、首を動かすことができなくなった。
夜も痒くて痒くてたまらず眠れない。
身体が疲れ果てて仕事をすることができず退社、失業してしまった。
「お前、その顔どうにかせえや!」と上司に怒られながらも半年間、頑張ったのだが……。
アトピーはとことんひどくなると、気だるくなって、安静にしていても心臓の動悸が激しくなる。
夏に会社を辞めて、秋になって冬になろうとしていた。私の苦手な季節がやってくる。
保険適用外の漢方の煎じ薬を飲んでも治らない。私は焦った。このままでは失業者のままだ。再就職の面接を受けることができないから。お金の貯えもなくなりつつあった。
20年間のアトピー治療に疲れ果てた
思えば私は複数の医療機関を渡り歩いた。そんな20年だった。
近所の西洋医学の皮膚科に始まって、ステロイドから漢方治療に移った。
大学付属病院のT先生にはじまり別の漢方クリニックにもいった。そこで漢方の医師からいわれたのが、「あなたのアトピーは慢性病やね」だった。
週に1回、2年間通院してこの言葉。やるせなくて、行くのをやめた。
そして、次にいったのが初診が1年待ちの評判の高い漢方専門クリニック。
院長先生は東洋医学の権威であり、私は高名で人気のある医師から診てもらっていた。
そして、通院して2年経過したある年の春、私は3回目の悪化に見舞われて会社を辞めてしまったのだ。
一生懸命に漢方を土鍋で煎じて飲んだ。しかし、まったく治らない。むしろ冬になるに従い悪化していく。
毎晩、痒くて眠れない夜が続いた。
私はしだいにクリニックから遠ざかるようになった。
そして、ついに私は漢方クリニックへの通院をやめたのだった。
すべての治療を受けるのをやめたのだった。
さりとて、「自力で治すぞ」といった奮起も気概もなかった。
ただ、疲れたのだ。でも、今思えばこれが良かったのだ。
アトピーは気合で治るものでもないから。治そうと思えば思うほど治らないから。
この男は自分の力でアトピーを治したんです
それから何年かしてからのち……それは春だった。
私はある教室で、50歳代の女性に出会った。
その女性は、私が通院していた漢方クリニックの医師を知っていて、懇意の仲だったことがわかった。
あの初診が1年待ちのクリニックの医師のことだ。
こんな場所で医師の名前を聞くとは……私は驚いた。
「今でも漢方クリニックにいってるの?」
「いいえ。ずいぶん前にいったきりで、いってないんです」と私。
彼女は「先生に挨拶した方がいいよ。一緒にクリニックに行こう」といった。
私は彼女と友達になった。
彼女は私の心の奥にある悲しみを感じとってくれていたようだ。
とても私に優しく、思いやりをもって話しかけてくれた。
こんなに私を理解してくれる方に出会うのは珍しい。
ほどなくして、私は彼女と漢方クリニックに行った。先生に会った。挨拶をした。
「おーひさしぶりやな」先生はあの頃と変わらない飄々としたご様子だった。
大きな待合室の部屋に通された。
そこには、医師、鍼灸師、整体師、食養生の先生方がいた。
先生は並み居る医療関係者にこのようにいって私を紹介した。
「この男は自分の力で治したんです。こういう人は私たちにとって困るんですわ」
そう冗談まじりに先生はみんなに話した。
そして快活に笑ったあと、私を抱きかかえた。
私の体験から導かれる教訓
私の場合、医療から身を置くことで完治を果たしたのですが、治療を医師から受けている期間において気づくべきことがあったはずです。
何に気づくべきだったかといえば、「病院に通院するだけでは治らない」ということです。
今から思えば現在、発売禁止になっているアンダームクリームに対して疑問を持っても良かったのです。
では、あなたが私のように遠回りしないために以下に教訓を示しました。ぜひ参考にしてください。
・治療を受ける目的を忘れてはいけない。アトピーを治すのが目的であって通院や薬を塗ること自体を目的にしてはいけない。
・治療を受けて治らなかったとしても、その治療を施した医師や薦めた人を非難してはいけない。
治すのは自分自身。自分の行動と、行動の結果に責任を負うべき。よって、批判はしても口汚くののしるなど感情的な批難はよくない
・治らないことを他人のせいや、モノのせいにしてはいけない。
・アトピーでない人を恨んではいけない。嫉妬してはいけない。自分をみじめに思うだけだから。
・医師があなたを癒すのではない。病院に依存的になってはいけない。私の場合、惰性的に通院や投薬を受けていたことが20年もこじらせる結果となった。
やってもらって当然、治してもらって当然、週に1回の通院という決まりだから行く、といった主体性を欠いた意識では治るものも治らない。
・とはいえ我慢は良くない。辛い時は「助けて」と、いうべきだった。孤軍奮闘はいけない。